悪魔の囁き

令和の御代の初ゴルフ。OBは6発で、内、最終ホールに4連発を打ち、まあ年甲斐も無く元気な令和初ゴルフとなる^^;只収穫は、某所から購入したあるゴルフ球。明らかに飛距離が今までのボールとは違っていた。飛距離の低下に悩んでいた私に光明をもたらしてくれそうなのだ。ただこのボール、非公認なのである。つまり、きちんとしたゲームで使用をしてはいけないルール違反のボールなのだ。もう月例競技などにはでていないので問題は無いものの、気になるのはプライベートのゴルフコンペ。ゴルフは違反行為に気付いたら自らが申告をするのが最低限のマナーだが、今、私の耳元で「黙ってれば分からん」と囁く悪魔の声が耳をついて離れないのである(>_<)

多佳子の世界

 

その店は和紙、色紙、書道関係に加えて額装なども扱っている。私がそこの社長さんと係の人に2枚の短冊を出すと、「これは凄い!」「これは上等!」と驚きの声を同時に二人から発せられたのだ。彼らは短冊の俳句、揮毫者に驚いたのではない。いろいろな紙を取り扱っているところから、短冊そのものにびっくりしたのだった。それは漉きあげた雁皮紙に何度も色を乗せ染め上げ、金粉は時代が経ても褪せず変色が無く、職人が丁寧に丁寧に作り上げたものだと言うのだ。今では希少価値で、先ず作ることは不可能、値段は付けようがないとの事だった。

そこに橋本多佳子の揮毫がなされていたのである。句は〈いなびかり北よりすればバ北を見 多佳子〉〈春夜どの岬ぞ吾をよぶ燈台は 多佳子〉。いなびかりの下五が「北を見る」ではなく「北を見」となっている理由は不明。敢えてそうしたのか、バランスが悪くなると思ったのかどちらかだろう。(その後、よくよく見てみると、「見」の最後が下に撥ねており、「る」と続けたが時代を経て墨が薄れて見えなくなったようだ。多佳子が「る」を書き漏らしたのではないことが判明)

 

額装前と後の2枚の写真を載せる。貴重品の短冊と、そこに記された多佳子俳句の世界を味わっていただけたら幸いである。(額は事前に予約したそこそこのものだったが、店の社長曰く「この短冊には見劣りがします」とはっきり言われてしまっている(;_;))

豊崎神社

  写真は大阪の豊崎神社。境内の桜は五分咲きだったが、敢えてこの構図を掲載する。手前が本殿で奥の建物は参集殿という。もう4.50年前、今は鉄骨作りだが当時は木造だったと思うこの建物で結社の句会が行われ、私は皆勤に近く参加していたものだった。私の俳句の基礎はこの参集殿で出来上がったと言って過言ではない。戸口に暫し佇んで往事に思いを馳せていたのである。
 さて、私が何故この神社に来たかというと、ノスタルジーに駆られてと言うわけではなく、近くでのある女人との待ち合わせの時間が2時間ズレていたためだった。完全に私の勘違いで持て余しの時間の消化の為に訪れたのである。昔だったら、こんな馬鹿な勘違いは絶対にしないものをとその女人にくどくど話したが、女人、疑わしそうな目をしながら、次回も敢えて今日と同じ時間の待ち合わせを設定した。私の脳の老化がどの程度かを見極めようとしているのが感じられたのである(^^)/ 
(尚、その女人、年若いお嬢さんではあるが、想像を逞しくするような間柄ではもちろん無い事を付け加えて置きたい(^_-)。)

帰って来た年賀状

 年賀状の1枚が宛先不明で戻って来た。昨年までは届いていたのにと、ふっと気になり電話をしてみる。と、自動通話音で「この電話は使われていません」。学生時代同じ団体に所属していて親しくし、最近こそ会う機会は少なくなったが年賀の交換だけは続いていた。気になって家を訪ねたが、そこは新しく2件の家が建ち、表札も見知らぬ名前。彼の知り合いにも連絡をしたが、分からぬままであった。彼はひとり暮らしで、所謂自由人、ギターの教師などで生計を立てていた模様。ある時期よりは篠笛に凝りだし、街角で野外ライブのような事をやっていた。

 何日か前、新聞にグリコ森永事件が載っていて思いだしたことがある。昔々、彼と飲んでいるとき、突然彼が「グリコ森永の犯人はお前やろ!」と言い出したのだ。スーパーの棚に毒入り菓子を置いている斜め後ろの写真が公開されたが、その姿が私そっくりだと言う。「バレましたか」と笑い飛ばすも、「警察に売るようなことはせんから、正直に話せ。」「きつね目の男のモンタージュもよく見ればお前に似てる」としつこく迫って来たのだった。

 その後暫くして、なんと刑事さんが尋ねてきた。私が乗り換えた以前の車の行先を聞いていたように記憶している。刑事さんが来たのは彼が警察に話した爲とは考えてはいないが、以来「貴方がチクったからだろう」と飲み屋での反撃材料となったのは言うまでも無い。

 これからグリコ森永事件の回想記事などを見る度に,私は彼のことを思い出す事になるかも知れない。今頃何処にいるのか探す術はないが、これまでを一切捨てて、どこか新天地で過ごしていると信じようとしているのだ。


返して!


 松過ぎの本日より、玄関の色紙額に写真の色紙を掛ける。〈学問のさびしさに耐へ炭をつぐ 誓子〉山口誓子の初期の代表作。最近入手した色紙だが、この冬はこの染筆を見て背を正してゆきたい。

 尚、松の内七日間の色紙は〈元日の予約の部屋に太平洋 美代子〉だった。お正月はだいたいこの染筆を掛けてきている。美代子とは橋本美代子のことで私の俳句の師。今年94歳を迎える。

 この美代子の染筆には裏話あり。昔々に句会で美代子特選を取ったとき戴いたのだが、その翌年の正月からこの染筆を掛けることになる。そのことを何かのおりに美代子に話すと「恥ずかしい!返して。もっとちゃんとした色紙を書いてあげるから」と言い出したのだった。何故「返せ」と言った理由は分からないが、ご本人には染筆の出来が満足のゆくものではなかったのだったのだろう。しかし、元々が流麗な筆致で文字の構成にも計算し尽くしている彼女の色紙は評価が高い。私には充分に満足のゆくものなので、「いえ、お返ししません。毎年正月には飾り、身を引き締めさせていただきます」と突っぱねたのだった。

 近年はお目に掛かることも無くなったが、この染筆を掛ける度、俳句にも書にも厳しく、その反面、構えの無い、お茶目ともいえる人柄を、思い浮かべ、師の更なる健吟を祈っているのである。

(この文の趣旨から、美代子の色紙を載せるのが筋だが、「返しなさい」と言われたものを公表するのには躊躇するものあり。どうしてもご覧になりたい方は正月に拙宅の玄関に来られたし(^_-))

真面目に俳句のお話

 あまりこちらには記さないが、平成27年創刊の俳句結社誌の責任者を勤めている。俳誌名は「ぽち袋」。月刊で来年1月号にて43号を重ねた。僅か40頁前後の小冊子だが100名強の会員の熱意とスタッフの献身によってここまで続いている。ここに「ぽち袋」の宣伝をする気はないが、この1月号で「自然災害と俳句」と題する私の拙文を載せて頂いた。俳句芸術の根本に少しだけ触れているのでご関心の有る方は読まれたし。(長文です。又会員向けの文章なので固有名詞に分かりにくいところはご容赦。)

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     自然災害と俳句     渡辺徳堂

 平成三十年は自然災害の多発の年でした。大阪北部地震、西日本豪雨、空前の酷暑、台風21号、そして北海道胆振東部地震と二十年、五十年に一度あるかどうかという自然災害が立て続けに起こっています。ぽち袋の会員は関東方面から四国、九州北部までおられますが、会員数が多いのは西日本・関西圏です。直接に被害に遭われた方も含め、自然の猛威の恐怖を体験した方は多数おられます。ですが、いずれの方も、甚大な被害には遭われていなかったのは幸いでした。

 さて、このような自然災害に遭ったとき私たち俳人はどうすべきかです。もちろんご自分の身を、命を守る行動が優先されるのは無論です。ですが、その怖さに負けてしまって、心が萎えて、何も考えられず、又動けずという虚脱状態に陥ってしまってはダメなのです。ご自分の置かれた環境、立場を冷静に見詰める目と感覚は常に持ち続けることです。それは又、被災から立上がる勇気とも繋がって行きます。

 今から二十八年前(平成七年)の阪神大震災では、私が実務を携わっていた俳誌「七曜」の会員も多数被災の恐怖を体験しました。その多くの方々は茫然自失すること無く、被災に遭っている惨状と自分自身を冷静に客観的に見詰めて俳句を作っておられました。その一部の方の句を紹介します。

  避難子の城は凍床一畳分       塩見新子

  避難所の仮設トイレに毛皮着て

  腁の手で齧るラップの握り飯

  寒暁の闇激震の破裂音        本橋康子

  蒲団ごと揉まれて立てず震度七

  被災三日洗はざる顔悴みて

  火が風を風が火を呼ぶ地震の火事   藤田一二

  火事跡の瓦礫に墓標「父眠る」

 塩見新子さんはご自宅が全壊となり、避難所で過ごされました。我々は被災の大きかった地区の方に連絡を取り続けましたが、彼女だけが生死も含めて行方不明の状態が続いていました。当時の七曜誌に堀内薫は「十日経つも不明」と前書きをして〈地震地獄即火事地獄新子頑張れ〉と誌上に発表したほどです。しかし、彼女は芦屋の令夫人とは真逆の環境に陥るも作句を怠らなかったのです。避難所の過酷な生活には涙を流すこともあった事でしょう。そんな中でも俳句だけは作り続けた彼女に今更ながらに尊敬の念を持ち続けているのです。本筋とは離れますが、やはり被災して〈停電にかくも冷たきカーペット〉と作った桐生紫さんは、交通網が遮断されている被災地に、車で山越えして芦屋に入り、避難所の塩見新子さんを見つけるや家まで連れて帰り、お風呂やら食事を差し上げ、泊まって戴いた事がありました。

 本橋康子さん、藤田一二さんは、それぞれ宝塚、神戸長田区と被災の激しいところでしたが、全壊は免れました。おふたりとも、地震の瞬間、その後を恐怖や虚脱に身が竦んでしまっている状況で、冷静な目と心で詠まれているところは学ぶところ大と言えます。お三方のそれぞれの俳句は震災の体験からの叫びであり、祈りです。貴重で尊い俳句として後世に残されて然るべき作品と信じます。我々が、お三方から学ぶことは、大事に遭っておたおたしている自分を見詰めるもうひとりの冷静な自分の目を持っておられた事です。それが過酷な状況の俳句を生み出しました。その目を持った者こそ真の俳人と断言して良いと思うのです。

 このように自然災害等に負けず真向かうことで、災害、又は自分の環境を直接表現する勇気を持つことは大事なことです。それと共に、降りかかった災難を心に刻んでおくこともより大事なのです。俳句の究極は物を通して自己を表現する即物詩です。その究極はその物が作者自身となることです。それは、作者の生活、信条、思想、教養、経験など全人格が物に籠められていることでもあります。当然災害に遭って拭い去ることの出来ない恐怖、不安などもその中に入ります。例句をあげます。

  海に出て木枯帰るところなし  誓子

 句集「遠星」に収められている句ですが「遠星」には作句日が記されてあり、この句は昭和十九年十一月十九日となっています。この句を「神風特攻隊を読んだ句だ」と鑑賞する向きもありました。木枯の帰ることのない一方通行は特攻隊と重なる面はあります。昭和十九年後半は特攻隊の出撃が盛んにおこなわれていた時期とも重なってはいます。でも果たしてそうでしょうか。誓子は書物などで「特攻隊の事は知っていた」「木枯は片道のガソリンだけを積んだ特攻隊そっくり」とも記していました。でも「特攻隊の事を読んだ句」とはひと言も述べていません。確かに誓子は特攻隊を知っていたのでしょう、そして、そのことはその頃の厳しい戦時情勢と共に誓子の心に深い影を落としていたに違いありません。またこの句が生まれた地、四日市の富田海岸は、当時は別荘地であったらしいですが、誓子には、結核と思われた病を養生するところであり、戦禍を避ける仮住まいの場所であったのです。近くに知り合いがいるわけでなく、波津女とふたりだけの孤独な地であったのです。そのような心の暗さ、鬱然とした憂いの中で海岸に立っていたときこの句は生まれたのでした。こうして句の背景を知ると、木枯そのものが誓子自身であるように感じられます。つまり木枯と誓子が一体となった句なのです。それは句の中に、当時誓子が心に持っていた、特攻隊の事、戦時情勢、希望の無い療養生活、絶望的孤独感が籠められているのです。

  きしきしと帯を纏きをり枯るる中 多佳子 

 「海彦」に収められている昭和二十七年の作です。戦後から七年経っているとはいえ、日本はまだ高度成長期には入っていませんでした。日本経済は疲弊し、社会不安が収まらない頃です。多佳子の生活も戦前の櫓山荘時代の優雅振りとは激変をしていたはずです。そんな中、女ひとりで、子供四人を育て上げ、嫁がせたのでした。また、この年は心臓が変調し身体にも不安を覚えだしていたのです。そのような当時の状況、多佳子の内面を推し量ってこの句を見るとき、もろもろに毅然と立ち向かう多佳子の凛とした姿、何者にも負けない気概、覚悟めいたものを感じ取ることが出来るのです。つまり現実を踏まえた、大地を踏みしめた俳句といって良いのではないかと思うのです。ある俳人がこの句と星野立子の〈秋燈を明うせよ秋燈を明うせよ〉と比べて話しておられた事があります。彼は立子の句を神品クラスと激賞をしましたが、評価が高かったのは多佳子の方でした。根源として現実を踏まえているか否かが評価の分かれ目でした。

   太陽の火の粉となつて鳥渡る   薫

 堀内結編の「堀内薫の日記抄」によると昭和四十四年十月の句会にこの句は出されました。誓子の特選でしたが、原句は「太陽に」だったのを、「太陽の」と添削をされたとあります。「に」は、太陽と渡り鳥がわかれていましたが、「の」となると太陽と渡り鳥は一体となっているのがわかります。単に助詞一つを変えただけですが、これによって俄然句が素晴らしくなったのがお分かりになると思います。改めて誓子の凄さを感じたところです。さてこの句ですが、命をかけて懸命に飛んでいる渡り鳥の姿を「火の粉」に集約しています。この懸命さ、真摯さ、愚直さは薫の生き様そのものなのです。「火の粉」に薫の全てが凝縮されて一体化されているのです。

 このように俳句を真面目に、懸命に作り続けてゆくと、私たちはいつしか自己の内面が句に投影されてゆくようになります。挙げた三句のような優れた句となるかは別として、いつかは自然とこのような境地に入って行くことが可能となるのです。私たちは自然災害などにも心が萎えるのでは無く、姿勢は真向かう位の気持ちを持ちましょう。そして、心に刻み込みましょう。その災禍が俳句として表現できたら素晴らしいことですし、例えその時に災害の句が出来なくとも、災害で味わった、恐怖や不安は心の奥に残ります。それが後々何かを見たときその物にすっと反映されてくるものなのです。そういう俳句が作れるようになるには、日々写生の俳句を作り続けることです。写生の鍛錬よってのみ誓子、多佳子、薫らの境地の俳句が生まれるのです。私たちは今年も切磋琢磨して俳句の厳しいですが正しい道を歩んで行きたいものです。

写真の写り方悪し。現物はもっと綺麗です(^^)

白バイのお巡りさん

齢74でスピード違反で捕まる(>_<)。制限速度50㎞を19㎞オーバーとのこと。もう、ごちゃごちゃ言っても取り消されるわけでは無いので観念。

深~く反省しながらら、帰宅するとAmazonに頼んでいた本が届いていた。その本のタイトルは「府中三億円事件を計画・実行したのは私です」。事件から五十年経過というタイムリーさもあってベストセラーになっているらしく、地元の本屋さんではどこも売り切れになっていた。事件の実行犯は偽の白バイの警官だったので、スピード違反の白バイ警官との偶然に苦笑い。

直ぐ読み始めたが、小説風にしているが構成も文章も私には甘く、軽薄に映った。流し読みで読了した印象は、これが本物の犯人?と思わざる得ない。唯一、犯人しか知り得ない情報というのが「警察手帳をわざと車に残した」と言うのだが、これも、いろいろなサイトを検索すると警察手帳はその当時も個人が保管するものではなく、警察署が保管するので、自宅で共犯の父親の警察手帳を盗んだなどはあり得ないらしい。

この著者とメールで接触した記者の、具体的な質問に対して「続編で記す」、と答えたと言う。

私は買う気無し。

(写真は私を捕まえた白バイ。お巡りさんには撮影の許可を貰う。「Facebookに載せて反省します」と言ったが、私の顔を見たものの不可とは言われていない。多分、「軽薄な年寄りが」とでも諦めたのだろう(^_^)/)